セゴビアの歴史は大変古く、先史以前のクロマニヨン人の居住跡がアルカサル城の近くクラモレス川とエレスマ川の合流地点に当たる渓谷で見つかっています。青銅器時代にはケルト人の遺跡も見つかっており、アルカサル城はケルト人の城址跡に建築されました。
紀元前2世紀の終わりにはローマ人が到達しており、西の商業地と発展しました。その後正式にローマ帝国に編入され、世界的に有名なアクエドゥクト:ローマ水道橋が建設されました。
セゴビアの名の由来で現在一番有力なのはケルト語とラテン語の造語、すなわちセゴ:勝利、ビア:道、勝利の道という説です。
イスラム教徒の考古学的遺跡がほとんど残っていないことと、ヨーロッパで最も豊かなロマネスク様式のアンサンブルが存在することから、この都市はイスラム侵攻後に放棄され、11世紀末から、アルフォンソ6世の娘婿のブルゴーニュのレイモンと、彼の再建された教区の最初の司教である同じくフランス人のアジェンのペテロに率いられた、半島北部とピレネー山脈の向こうからのキリスト教徒によって再定住されたと主張する歴史家のテーゼが支持されています。
16世紀から17世紀にかけて、貴族の一族と誇り高き織物業者が競って都市宮殿を建設し、ルネサンス様式の中庭や庭園にバロック様式の絢爛豪華な紋章が施されました。
しかし、フアン・ブラボに率いられたセゴビアの民兵が重要な役割を果たした共同体戦争でのカスティーリャ諸都市の敗北と、アメリカ大陸の発見に伴うスペイン経済の重心の南下により、ブルボン家は、周辺地域に建設したラ・グランハやリオフリオといった王宮用地も、市内に設立した砲兵アカデミーも、衰退を止めることはできませんでした。
セゴビアがフランス軍とカルリスト軍の占領に苦しんだ19世紀には抑えきれなかった、その後の困窮が大きな原因である。
20世紀に入っても、セゴビアの状況はあまり改善されなかった。1917年の経済危機、プリモ・デ・リベラの独裁政権、第二共和制、そしてスペイン内戦によって引き起こされた国レベルの政治・経済状況の混乱により、セゴビアの経済は十分に発展しなかった。観光業とホテル業が成長し始めたのは20世紀後半にはいってすぐのことで、これによりセゴビアは大きく発展し、1985年には「セゴビア旧市街とその水道橋」がユネスコの世界遺産に登録された。
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